2020年09月14日

足利義晴美少年説

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※画像は『二水記』

こんばんは。定価70円の三城です。
今回は『二水記』に描かれている義晴将軍についてご紹介しようと思います。
これは細川高国の要請で赤松氏のもとにいた足利義晴(10)が大永元年7月6日に上洛したときの記述なのですが、

「御容顔美麗也」

って書いてあるんですよね……。要するに「めっちゃ顔ええやん」って感じです。わざわざ日記に顔の事を言及したものを残すということは、相当の美少年だったのでしょう。そうであってくれ。私は足利義晴美少年説を譲らないぞ。……そして、ということは、その息子たちである義輝・義昭も美形だった可能性が……??いやはや、何はともあれ妄想がはかどる史料のご紹介でした。
タグ:足利義晴
posted by 三城 at 22:29| 歴史

2020年09月12日

細川勝元、カエルの妖怪説

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※画像はノブヤボ仕様の細川勝元

細川勝元がカエルの妖怪かもしれないという説は、有名なのでしょうか?あまり聞かない気もしますが、今日はその話をご紹介したいと思います。怪談小説『玉箒木』によると、勝元はカエルの妖怪だというのです。まず、カエルの妖怪だという結論の前に面白い記述があるので、それをご紹介したいと思います。

※現代語訳は私の超意訳なので、気になる方は原文をお読みいただくことを強くお勧めします。

「勝元は政務の間にはいつも龍安寺に来ていた。方丈に座り池の様子を眺め、酒宴を催したりしていた。ことさら夏の暑い日にはしばしば池のほとりをぶらぶら散歩し、近習を払うと、一人でひそかに衣服を脱ぎすて素っ裸になり、池の水に飛び込み暑さをしのぎ、しばらくあちらこちらを泳いでから立ち上がると、そのまま方丈に入って寝入ってしまっていた」
(『玉箒木』より現代語訳)

龍安寺の裏の池に素っ裸で飛び込み、あちらこちら泳いだ後はそのまま方丈で眠る……勝元のイメージがどんどん崩れていくんですが如何に。生真面目な管領サマではなく、結構自由人ですよね。勝元。ちなみに、『塵塚物語』には、邸は広く大きく、黄金の鳥籠には鶺鴒や鸚鵡を飼い、衣服は豪華絢爛、食事は贅沢三昧ってあるくらいですからね。宗全と正反対の真面目で厳格な性格かと昔は思っていたのですが、案外そうでもないみたいです。ただ、為政者として民の事を考えることはしていたみたいで、飢饉の際には財をなげうって救済活動をしていたみたいですね。ちなみに、その時の義政は何もしませんでした。

話がそれました。『玉箒木』の勝元の話に戻ります。その後の展開が以下になります。


「ある夏の日。このあたりをウロウロしていた山賊7〜8人が龍安寺にやってきた。こそこそと方丈のほうをうかがうと、誰もいなかった。とても静かだった。今日は管領(勝元)も来ていない。寺の僧侶も出かけている。なんと幸いなことであろう。忍び入って財宝を奪おうと池の岸根を伝い、戸を押し破り方丈へ這い上がらんとしたときに、座席の真ん中に大きな蝦蟇が蹲っていた。頭を上げ、目を見ると、光研ぎ澄まされている鏡のようであった。盗賊どもは肝を冷やしそのまま倒れてしまった。その蝦蟇はたちまち大将とみられる人の姿になり起き上がり、そばにあった刀を取り、「お前たちは何者だ。ここは人の来るところではない」と大いに怒ったので、盗賊どもは恐れおののきわなわなと震えて「私は盗人です。物欲しさに忍び入りました。御慈悲をもってこの命をお助け下さい」と一同手を合わせて伏した。この人(蝦蟇だった青年)は大笑いして「しからば」といって床の間にある金の香合を投げ渡し「お前たちは貧困に迫り盗みをしたのであろう。であるから、これを与えよう。今見たことは人に語ってはいけないよ。はようはよう帰りなさい」と言えば、盗賊どもは香合を受け取らずそのまま戻し、ありがたきご芳志なりと言い切らないうちに後をも見ずに逃げ出した。何年もののち、この中の盗賊の一人が伊勢の北畠家にとらわれ、この話を語ることとなった。この蝦蟇は勝元の本身であり、このようなカエルの姿をあらわし、思いがけず離れに入ってきた盗賊どもに見つけられてしまった。またこの後ろの山中には木深き悪所もあれば、このような妖怪の類もいることであるよ」
(『玉箒木』より現代語訳)

方丈に座していたカエルが青年の姿に変わり、盗賊に香合を渡します。しかし、盗賊は驚きおののき香合を返して逃げていってしまいます。その時のカエルが勝元ではないか?という話でした。
タグ:細川勝元
posted by 三城 at 15:36| 歴史

2020年09月10日

超訳『細川両家記』

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マジカル管領☆細川政元は40歳になっても童貞で魔法使いになる練習をしており、政務を投げ出して諸国放浪の旅にでたがったり、舟遊びばかりしていました。その上驚くことに、細川政元は京兆家の当主でありながら大の女嫌いだったのです。しかし、いくら女嫌いだからといって後継ぎがいないのでは困ります。そこで政元は仲の良かったヤ〇ザ公家九条政基のこどもを引き取り、政元の幼名とおなじく聡明丸と名付けて可愛がりました。

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ほどなくして、聡明丸は元服し九郎殿と呼ばれるようになりました。ところが政元、「やっぱり細川の血が流れていない よそ者を京兆家の当主にするのはいけないね」と心変わり。阿波国から澄元という男の子を連れてきて跡を継がせようと考えました。澄元が京兆家にやってくると、政元は大喜びしました。そのさい、最初の養子であった澄之は廃嫡されてしまいました。


当主の言動があまりにもアレだったので、内衆たちは大変悲しみ、おおいに困ってしまいました。そこで薬師寺元一と赤沢宗益は「このままでは京兆家自体が滅びてしまう。なんなら当主の政元を排して俺たちが京兆家の主導権を握ろうぜ」と意気投合。早速作戦会議をはじめました。


しかし腐っても管領。政元は速やかに薬師寺・赤沢の反乱を鎮圧。死に際して元一は「皆々様ご存知の通り、私は『一』の字が大好きだ。名前は薬師寺与一、名乗りも元一、この寺も一元院と名付けられている。そうであるから、自害をするときも腹を『一文字』に切って立派に死んで見せようではないか!」と言って己の腹を掻き切りました。そのとき元一は「めいどにはよき若衆のありければ思ひ立ちぬる旅衣かな(表向きの意味:あの世には良き私の主がいるだろうから、私はこの世から旅立つのですよ)(裏の意味:政元テメー男漁りばっかりしてんじゃねーぞバーカ!)」と政元が大の男色家であることをバラしてしました。
元一の死後は、弟の長忠が摂津上下の守護代となり、栄華を極めました。保元の昔も君の命に従い、義朝が父為義の首をとり源家の長者となり栄華を誇りました。今回、弟の忠長が兄のたて籠る城を攻め落とし、栄華を誇るという事も世の理なのでした。(のちの没落の暗喩)

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さて、政元42歳の時。永正4年、六月廿三日の夜。政元の行水中に事件は起こりました。
養子を二人も迎えたことで、内部分裂していた細川京兆家。九郎澄之を擁する薬師寺忠長と香西元長に同心した福井四郎と竹田孫七に、政元はあっけなく暗殺されてしまいました。澄元が当主になったら自分たちの出番がない。香西元長らは私利私欲のために、主である政元を暗殺してしまったのでした。


主である政元を暗殺した香西元長と薬師寺長忠。次の狙いは澄之と同じく、政元の養子になっていた澄元の命です。不意を突かれた澄元たちは、香西らの軍に攻め立てられいったん退却します。政敵を追い落とした香西・薬師寺らは澄之を京兆家の当主に担ぎ、恣に振舞いました。しかし、澄元派も黙ってはいませんでした。八月一日、澄元軍は三好らと合力し、京都へ攻め上ります。所詮烏合の衆でしかなかった香西・薬師寺軍はあっという間に劣勢に。主殺しという大罪を犯した彼らに大義名分などありません。今回の戦の勝敗も、大義のない香西たちが負けるというのは世の道理なのでした。
覚悟を決めた澄之は、本当の父親である九条政基に最期の手紙を書くため、硯と筆を執りました。
「父の望む京兆家の当主となったのに、このような憂き目にあってしまいましたことは、本当に情けのないことでございます。本来ならば子である私が親の菩提を弔わなければならないのに、親に先立ちあべこべに菩提を弔われる側になってしまうのはたいへん悔しいことです」そこまで書くと、澄之は静かに辞世の句を詠みました。

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 梓弓はりてこころはつよけれど引手すくなき身とぞなりぬる
(心は梓弓が張るように強いけれど、引く人がいない身となってしまったことであるよ)



筆を置くと、澄之は髪を少しばかり切り、己の目から溢れ出てくる涙と共に切った髪を手紙に添えました。自分で書いた手紙を名残惜しそうに眺めたのち、控えている局へと手紙を託しました。そののち、澄之は伯耆を呼び寄せてこう言いました。
「私は公家の身分であった故、武家の作法である切腹の仕方を知らないので、教えてほしい」
伯耆が「自害というものは、まず西を向いて十念し、御腰の物を抜き、脇に刺し立て、右の脇へ引廻し、かえす刀で御心もとにさしたてて、袴の着ぎはへ押しおろすのでございます」と答えると、澄之は教えられた通りに腹を切りました。伯耆は泣く泣く澄之の介錯をすると、すぐに自分も自害し果てたのでした。澄之はまだ19歳という若さでした。

posted by 三城 at 16:03| 歴史

2020年09月07日

香西元長について

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こんばんは。定価70円の三城です。
いつも表情が変わらない香西元長を珍しく笑わせてみました。困った笑顔ですが……。おそらく、政元に「元長、本当は私の事好きだろう?……お願い。好きだと言って」と言われた時の反応だと思います。(そんな時は本編では永久に来ないが。)



ところで、香西元長の事を今まで規律に厳しい真面目で賢い男だと思っていたのですが、案外そうでもないのですね……。
香西元長が賢い男ではないエピソード。明応7年12月4日に香西元長は山城国山科で放鷹中、郷民にとらえられてしまいます(『後法興院記』)。山科は禁裏御料といって天皇の所領です。しかし、元長は天皇の所領だろうとお構いなしに年貢の5分の1を徴収するといいだします。郷民が言うことを聞かなかったからでしょうか、元長は山科の郷民を召し捕らえます。しかし、郷民は蜂起して逆に元長を捕らえてしまいます。幸い、主君の政元が安富・香川・薬師寺らに元長救出を命じ、同月11日には帰京しているようです。
香西元長が思慮深い男ではないエピソード。薬師寺元一の反乱の際、香西元長は淀城を攻め陥落させた。その功績に驕り、京都近郊の荘園から兵糧米を徴収しようと試み、公家衆や寺社からの反発を受けた。しかし元長は永正2年9月に兵糧米を差し出すことを拒んだ一乗寺や高尾や山科を放火し略奪を繰り返しました。さすがの政元も元長を寵愛しているとはいえ見過ごせなかったのか、元長を叱責するため山科まで赴きますが、元長は嵯峨まで逃亡してしまいます。
香西元長が天下を治める器ではないエピソード。永正4年6月、細川政元が戸倉某により暗殺された。香西元長(本文中では元継と記載があるが、おそらく元長)は「お館様が不慮の災難に遭われたことは今更どうしようもない。九郎澄之殿が世継ぎになることをお館様は望んでいた。一族の皆々様よ、ご同意願いたい」と細川一族に書状を送るが、阿波細川氏の威勢を恐れて、香西に同意するものはいなかった。そればかりでなく、政元が殺されたのは元長の陰謀によるものだという噂まで流れてしまった。これは、澄之を廃し、澄元を立て、罪を元長にすべてかぶせてしまおうという陰謀であった(『南海治乱記』)。その後、同物語では「香西元長は智謀・勢力と共に天下の一大事を処理するにはふさわしくない人物」と評価されています。

これらのエピソードを鑑みるに「元長はそんなに頭がよくない(失礼)」という結論に至りました。しかし、やってることが滅茶苦茶なのに政元に気に入られているということは顔がよかったんでしょうかね……

では!
タグ:香西元長
posted by 三城 at 22:19| 歴史

2020年09月04日

涙をこぼす持賢

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※画像は『畠山家記』

細川持賢といえば、厳格な勝元の叔父さんってイメージがあったのですが、今回紹介する記事で印象が変わりました。
この記事は上御霊社の戦いの後の話なのですが、時系列を追って説明すると、畠山家の家督争いの中で、畠山政長と畠山義就の対立が激化。戦争になります。畠山義就の同盟者である宗全が将軍の言いつけを破って義就に加勢したのに対し、政長の同盟者である勝元は政長を見捨てたため京都中から非難されました。武士としての面目を失った細川家を案じ、叔父・持賢が勝元に訴え出るシーンです。

「宗全にしてやられた。政長を助けなかったことがかえって天下の嘲りを被り、心外の恥辱を受ける羽目になった」

と涙を流し訴え出るのです。

……持賢、お前、泣けるのかーー

いや、勝手なイメージですが、この叔父さん泣かなさそうだなあと思っていたので、なんだかとても意外でした。
posted by 三城 at 13:10| 歴史